tel 0952-34-2269
佐賀県佐賀市鍋島5丁目1番1号

M.D.アンダーソン癌センター武者修行便り

有馬和彦

ヒューストンにあるアメリカ航空宇宙局(NASA)ジョンソンスペースセンターが宇宙船との交信の際に呼びかける際の決まり文句は誰が訳したのか知らないが「こちらヒューストン」ということになっている。宇宙空間という異界との扉を開くさしずめ現代の「開けゴマ」的呪文と言ってもいいだろう。日本からアメリカという「異界」へ渡り早1年が過ぎた私にとってこの拙文は遅すぎる近況報告かもしれないが,日本とは何かと違うこの国で暮らし,研究を行ってきた過程での驚き,発見をラボの皆様へも伝えたく,今さらながら「こちらヒューストン!」と声高らかに叫んでみたいと思っている・・・

I. ヒューストンについて

大学院入学以来,出原教授(当時助手)のDNAX研究所時代の思い出話を聞くにつけ,自分もいつかアメリカに行って研究に従事してみたいものだ,と思っていた。そのような夢を思うときはいつも決まって潮風の吹く西海岸の大らかな(金髪のお姉さんがローラースケートで颯爽と走り抜けるような)風景がイメージされていたのだが,出原教授からテキサス州にあるM.D.アンダーソン癌センターへの研修を示唆された瞬間,そのイメージはガラガラと崩れ去り,代わりに灼熱の大地とサボテン,それに投げ縄を振り回しながら馬に乗って駆けて来るカウボーイのイメージが脳裏に浮かび上がってきたのであった。

図1 メディカルセンターを自宅から眺む

しかしこのイメージが誤りであることに気づくにはそう時間はかからなかった。現代のヒューストンは宇宙,石油,そして医療という三つの大きな産業の柱を持ち,人口ではアメリカ第4の都市である。とりわけ医療については渡米するまで実感がわかなかったのだが,テキサスメディカルセンターと呼ばれる世界最大の一大医療コンプレックスが形成されている。ここにはテキサス大学やベイラー医科大学とその関連施設・各種専門病院をはじめとする50近い数の医療施設が林立している。それはカウボーイが駆け巡るテキサスというイメージからは大きくかけ離れた近代都市であった(図1)。

II. M.D.アンダーソン癌センターについて

そんなTMCの中にあって私が属するM.D.アンダーソン癌センターは中核をなす巨大施設である。本センターは綿花取引で財を成したMonroe Dunaway Anderson (1873-1939) が亡くなる数年前に設立した慈善団体を母体とし,1941年に設立されたテキサス州立癌病院をルーツとする癌治療・研究に特化した病院・研究施設である。1988年以降、正式名称をThe University of Texas M.D. Anderson Cancer Centerとしている。U.S. News & World Report誌のアメリカのベストホスピタル調査において調査開始以来16年間癌病院部門で常に1位か2位にランクされており,特に最近6年間においては1位に4度ランクされているという。1位にランクされた昨年は院内のあちこちに”#1, Again!”と書かれたポップが飾られ、職員皆がこのことを誇りにしているという雰囲気がひしひしと伝わってきた。現在の職員数はおよそ1万5千人(うちポスドクは700人以上)。当病院で治療を受ける癌患者数が年間7万4千人でうち1万1千人以上の患者が新規治療開発のための臨床研究に参加しているらしい。この数字はアメリカ国内で最も多い数だという。M.D.アンダーソン癌センターの建物はTMCの中,あちこちにそびえ立っており、外来臨床棟や癌予防棟といった新棟の運用も開始されたばかりである。建物間の異動は職員であればID提示により頻繁に巡回しているシャトルバスに乗ることができ、人の往来を容易にしている。

III. CCIRについて

図2 右半分がCCIRの入る建物。左半分は2005年9月にオープンした対称的な建物でタンパク質質量分析部門などの研究室が入居予定

M.D.アンダーソン癌センター全体での2005年の年間研究費が3.4億ドル。5年前には1.8億ドル程度だったということからも近年の研究重点化は顕著と言える。この秋にはM.D. アンダーソンの60年の歴史の中で最大の研究環境の拡大とされる「癌の早期発見と治療のためのレッドアンドシャーリンマッコームスインスティチュート(Red and Charline McCombs Institute)」という研究施設を作る計画が発表された(これは,マッコームス夫妻による3000万ドルという巨額の寄附に対する感謝を込めて付けられた名前である。アメリカには資産家による寄附によって作られ,それに対する謝意として寄附者の名前を冠する病院・研究施設が本当に多い)。これは手狭になった本院から2キロほど南にある116エーカーの土地に6つの研究センターを作ろうとするものである。私が所属する免疫部門もこのうちの一つに含まれ,癌免疫研究センター(Center for Cancer Immunology Research, CCIR)という名前で一足早く2003年に開所されている(図2)。

CCIRは免疫学,リンパ腫・骨髄腫,メラノーマ,そして骨髄移植という4つの講座から構成されている。この免疫学講座のチェアマンにしてCCIR全体の初代所長であるのが私のボスのYong-Jun Liu博士である。Liu博士はヒト形質細胞様樹状細胞の発見者として有名な免疫学者であり,出原教授も属していたDNAX研究所から請われて本研究所の所長に就任されている。

IV. 研究環境について

Liu博士はDNAX研究所時代の自由な雰囲気を愛されているようで,ラボ・研究所運営においてその開放的な精神は抜群のリーダーシップとともに存分に発揮され,私たち研究員は厳しく締め付けられることなく,自由に研究を楽しむことが出来ている。ただし,全くの放任主義というわけではなく,コミュニケーションを重視され,しょっちゅうラボスペースに出没され,研究員に声をかけている。あえて論文抄読会のようなものはないが,研究に関係する分野の論文を網羅的に読み,知識を蓄えることを事あるごとに訴えられている。
免疫学講座の中に研究室主宰者(PI)が10数人いて,それぞれが独立した研究を行っている。癌センターという場所柄,癌に関する免疫学ばかりやっているのかと思われるかもしれないが,実際には癌と直接的には関係しないような免疫研究も盛んに行われている。基礎免疫学を研究していけばいずれは癌の免疫学に応用できるだろうという寛容なスタンスのようである。とはいえ,やはり,さまざまな臨床部門との癌に関するコラボレーションは積極的に進められている。ラボスペースは研究室毎の扉といったものがないオープンな設計になっており,試薬や機器の気軽な貸し借りは勿論,人の往来も盛んで日本人としては気恥ずかしくてなかなか慣れない「Hi, ○○(相手のファーストネーム).」という呼びかけもそろそろ口をついて出てくるようになってきた。

免疫学研究に欠かせないフローサイトメーターやソーターは常にフル稼働しており,のんびりしているといつまでも自分の実験ができないこともある(図3)。

図3 ある月のフローサイトメーター予約表。ほぼびっしりと予約が詰まっている

V. 研究プロジェクトについて

図4 CCIR前にて、筆者

私が所属するLiu博士の研究室は2006年1月現在でInstructor 2名,Research Scientist 1名,ポスドク6名,大学院生1名,Visiting Professor 1名という比較的小規模のメンバーで構成されている。研究テーマは形質細胞様樹状細胞と新規サイトカインTSLPの二つであるが,Liu博士は常に免疫学の全体像を視野に入れつつ研究を進めているように見受けられる。私が関与しているTSLPはIL-7と相同性を持つ比較的新規のサイトカインであり,樹状細胞に作用してTh2型免疫反応を惹起させることが明らかにされている。実際にTSLPを強制的に発現させたマウスで気管支喘息や皮膚炎といったTh2反応と関連するアレルギー症状が見られることが昨年二つのグループから報告された。当研究室は昨年,TSLPがヒトの胸腺において制御性T細胞(Treg)の生成に作用していることを報告しており,このサイトカインが持つユニークな機能の解明はアレルギーや自己免疫疾患の病態解明につながる可能性がある。私は日本ではサイトカインIL-13を軸にしたアレルギーへのアプローチを行っていたので,当地で得た新しい視座から,これまでの知識と技術を総動員してアレルギー学・免疫学の理解を広げたいと考えている。こちらでは研究以外の雑事に時間をとられることが限りなく少ないので大学院生の頃に戻った気分で嬉々として毎日実験をしている(図4)。

VI. ハリケーン狂想曲

もう一つ,ヒューストンからの便りとして忘れてはならないのが昨年(2005年)夏のハリケーン騒ぎである。8月に「カトリーナ」と名づけられたハリケーンがテキサスの隣のルイジアナ州を直撃し,ニューオリンズ市の大半が浸水し,多数の死者・避難民を出した。これら避難民はテキサス州をはじめとする近隣各州で避難生活を送ることになったが,ここヒューストンでも多数の避難民を迎え,私たちもハリケーン被害の深刻さを目の当たりにしたのであった。その矢先,9月になり大西洋上で発生したハリケーン「リタ」はメキシコ湾内に進入してくるや勢力をぐんぐん拡大し,風速70メートル以上とも言われる超大型ハリケーンに成長し,湾岸の町ガルベストンとヒューストンを目指して北上を続けていた。

9月21日,その日私はいつものようにラボに行き,いつものように実験を始めようとしていた。するとボスが「今日は実験をしてはならない。試薬の整理,データのバックアップをとり,ヒューストンから逃げる準備をしろ」と言うのだ。九州出身の私にとって,台風の直撃はしょっちゅう受けていたし,そういう時は雨戸を閉めて家にこもり,嵐が過ぎるのを待つのが当然と思っていたので「逃げる」という選択肢を提示され,呆気にとられたのであった。周りの人々も着々と逃げる準備をしていた。アルゼンチン人の女性研究者が「もうテキサス州内にはホテルはとれない。たった今オクラホマのホテルを予約した。」と言っているのを聞き事の重大さを悟った。皆,窓際の精密機械を窓から遠いところに移動させている。窓が割れ,水びたしになった場合のことを想定しているのであった。私も実験データをCDに焼き,実験ノートを袋に入れて引き出しの奥深くにしまった。先の女性研究者は10種類以上の細胞株の凍結保存を行っていた。

その頃妻は,同じアパート内の日本人が10ガロン近い飲料水を確保し,翌日にはカリフォルニアに逃げる準備をしているということを知り,蒼くなっていた。車にガソリンを入れ,銀行で数百ドルの現金を下ろし,スーパーで非常食,飲料水,乾電池,ローソク等を買うために奔走していた。

次に避難先を確保する必要があった。インターネットの予約サイトにつなぐと,刻一刻とフライトとホテルのパック料金が上昇していくのが分った。また予約しようとしてもつながりにくく,しばらく迷っているうちに5分前には空いていたホテルが埋まってしまうというような状態であった。何度か試みているうちにダラスへのフライトとダラスのホテルの予約がとれた(このホテルの予約は実際には予約サイトの不手際によってとれていなかったことが後で明らかになるのだが)。

9月22日未明5時頃,空港へ向けて自家用車で出発。フライトは10時半。通常なら空港までは30分で着くのだが,道が込んでいるとの事前情報により,このように早い出発となった。ところが走り始めたはいいが、高速道路はもちろん一般道も北へ向けて走る道路にはすでに車があふれていた。この頃一斉にヒューストンから北のダラスや西のサンアントニオへ向けて多くの人が車で避難を始めていたのであった。裏道から裏道を通り,やっとの思いで空港にたどり着いた時には既に8時を過ぎていた。それでもフライトまでは2時間以上ある,との思いで急ぎチェックインカウンターへ向かった。ところが,ここにも人が大挙しており,どこが列の最後部なのかすら分らない状況。また皆揃いも揃って山ほどの荷物を抱えている。さらに悪いことに当日は無断欠勤の空港職員が相次いだようで,全く人の波をさばくことができていない。アメリカでは出発時間が迫っているからという理由では優先的に手続きをしてくれないということを学んだ。空港職員にいくら懇願しても「皆状況は同じなのだから並んで待っておけ」との一点ばり。日本の空港のサービスがどれほど素晴らしいものかその時痛感した(とはいえ,エリート会員だけは優先的に手続きをしてくれていたようだが)。結局フライト時間までにチェックインカウンターにたどり着くことはできなかった。代わりの便があるはずもなく,私たち夫婦は車でダラスに逃げる決心をしたのであった。

図5 ハイウェイ上のひとコマ。山ほどの荷物を積んで走る車。その横には立ち往生した車も

ところがダラスへ通じるハイウェイは既に何万台という車であふれ返っていた。一般道でも状況は同じで,中央分離帯や対向車線を走り出す車が続出。それでますます交通は混乱し進まないという悪循環。まだハイウェイの方がましだろうと思いハイウェイに留まったのだが,全く進まない。時速1-2キロ程度だろうか,じりっ,じりっと動くのみ。皆,ガソリンを節約するために炎天下の中,冷房を切って窓を開け,ドアを開け,北を目指していた。上半身裸の運転手,読書しながら運転席に座っている人,時には車から降り,背伸びをし,しばらくうろうろ歩き回る人,などなど。山ほどのトランク,スーツケースを車の屋根にくくりつけて走る車も見た。家族4人分のマットレスとソファを台車に載せ牽引している車も見た。3匹のロバと2匹のヤギを牽引する檻に入れて逃げる車もいた。そのうちボートを牽引して走る車まで現れた。沿道のガソリンスタンドは売るべきガソリンを持たず,あてもなく次のガソリンの入荷を待つ車が列をなしていた。そうなのだ,このまま渋滞の中を動き続ければじきにガソリンが必要になってくる。しかし,時速から逆算するとダラスに着くには4-5日かかることになる。ガス欠になるまで走り,ガソリンスタンドであてもなくガソリンの入荷を待つのか?タンクローリーですらこの渋滞の中予定通りに着くはずがない。私たちは路上で動けなくなるよりは自宅でハリケーンを迎えた方がましだ,との結論に達した。窓が割れ,屋根が飛んでいくかもしれない。外は洪水で車は水につかるかもしれない。ハリケーンが通過した後は電気も水もない状態が数日は続くだろう。そんな想像が頭をかすめる中,車を旋回させ,今来た道のりを戻る。半日かけて進んだ道のりを20分程度で逆行した。9月22日,まだ「リタ」の上陸まで24時間以上あった。テレビさえ見なければハリケーンが来るなどまったく感じられない,そんな夕暮れだった(図5)。

一夜明け,9月23日。もう市内の店はどこも開いていないし,ガソリンも手に入らない。車以外の公共交通機関が発達していない社会にはあまりに酷な状況であった。市内を走る車は少なく,さながら元日の田舎町といったところ。雲行きもまだ怪しいところはないものの,朝から若干の風の強さを感じた。私は窓という窓をテープで補強し,最悪割れた場合でもガラスの破片が室内に飛び散らない様にダンボール紙を貼り付けたりもした。アメリカの窓には日本にあるような雨戸がないので,こういう災禍をまったく想定していないということを痛感した。その後は読書をしたりテレビを見たりして珍しくのんびりと過ごすことができた。

ハリケーンのアメリカ本土上陸は9月24日未明。結果的には直前になってハリケーンの進路がわずかに東にそれたためヒューストンは直撃を免れた。代わりに直撃を受けた町ボーモントの被害はカトリーナによるニューオリンズ被害を髣髴とさせるものであった。周囲の友人の中には丸1日以上運転を続けダラスに逃げた者もいるが,逃げようとしたが大渋滞に巻き込まれ,身動きが取れずに引き返したという者は多かった。決して結果往来で,逃げる必要などなかったではないか,とは言いたくない。逃げることができた者,逃げなかった者,逃げようとしたが私たちの様に逃げられなかった者,それぞれに複雑な心持ちを残した数日間であった。2005年は近年稀に見るハリケーンの当たり年だったという。ニュースでは国によるニューオリンズ避難民に対する住居の斡旋も近々打ち切られるとか切られないとかでもめている。そうこうしているうちに2006年のハリケーンシーズンがまた始まるだろう。これからも毎年このような不安を抱えながら暮らすのかと思えば頭が痛い。昨年の経験を生かし,今年はもう少しうまく逃げたいものだと思っている。

VII. おわりに

最後に,海外研修の機会を与えてくださった出原賢治教授,向井常博元医学部長(現 佐大理事)をはじめ,講座スタッフ,大学院生諸君に深く謝意を表します。この経験が帰国後の研究遂行にいい影響を与えてくれることを期待しつつもう少しこちらでの修行を重ねたいと思っています。

(2006年1月19日)