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DNAX研究所回想記

筆者は1991年2月から1994年6月までの3年余りの間、米国カリフォルニア州のパロ・アルトという町に位置していたDNAX研究所に留学していました。“位置していた”と過去形になっているのは、今ではDNAXという名前の研究所は無くなってしまい、Schering-Plough Biopharmaと名前を変えてしまっているからです。この研究所には創立当初から新井賢一現東京都臨床医学総合研究所研究総括顧問(元東京大学医科学研究所所長)が深く参画されておられ、その関係もあって多くの日本人研究者がスタッフ、ポストドク、大学院生として集まっていました。DNAX研究所の設立にまつわる経緯については、アーサー・コーンバーグ先生が書かれた「輝く二重らせん(メデイカルサイエンスインターナショナル社刊)」をお読みになって下さい。私が留学していた時期に同研究所に在籍され、現在日本で研究室を立ち上げられておられる方たちは以下の通りです(漏らしてしまっている方がいらしたら申し訳ありません)。宮島篤(東京大学分子細胞生物学研究所教授)、北村俊雄(東京大学医科学研究所教授)、渋谷彰(筑波大学大学院免疫学講座教授)、東みゆき(東京医科歯科大学分子免疫学講座教授)、須田貴司(金沢大学がん研究所教授)、原孝彦(東京都臨床医学総合研究所プロジェクトリーダー)、宮武昌一郎(東京都臨床医学総合研究所プロジェクトリーダー)、原田登之(結核予防会結核研究所プロジェクトリーダー)、西中村隆一(熊本大学発生医学研究センター教授)(敬称略) 多くの才能あふれる俊英たちに囲まれ、これ以上願うべくもない研究環境の中で留学生活を過ごすことができ、研究者としては夢のような生活でした。

DNAX研究所における研究戦略の特徴としては、サイトカインを軸として研究を展開し、新しいサイトカインの同定、サイトカインのシグナル伝達機構の解析、サイトカインの生物活性の解析などを集中的に進めようとしていたことがあげられます。ご存じない方に説明しますと、サイトカインは免疫や造血といった生体の機能にとって重要な生理活性物質であり、体内の細胞間における情報のやり取りを司っている分子だと言っていいでしょう。これらのサイトカインは生体の機能にとって重要であるにもかかわらず、微量にしか存在しないため、従来の古典的な生化学的手法で精製することは困難でした。1970年代頃から分子生物学が花開き、その手法を用いてそれまで生物活性でしか認識できなかったサイトカインの遺伝子配列が1980年代になって次々に同定されていきました。DNAX研究所も創立当初よりサイトカインのジーンハンテイング(gene hunting)競争の先頭を走っていました。その成果として、インターロイキン3(IL-3)、IL-4、IL-10、IL-13、IL-25、顆粒球単球コロニー刺激因子(GM-CSF)などのサイトカインを次々に同定していきました。筆者が留学し始めた1991年当時は、IL-10を発見した熱気がまだ冷め止らない頃でした。そして、サイトカインの発見ラッシュがある程度進んだ次の段階として、それらのサイトカインのレセプターを見つけようとする研究が大きな流れとなってきました。サイトカインがある細胞に作用するためには、その細胞表面上にそのサイトカインのレセプターが発現していなければいけません。レセプターはサイトカインとの結合力が強く(これを親和性と呼びます)、ある特定のサイトカインとだけ結合する(これを特異性と呼びます)特徴を持っています。可溶性の分泌タンパク質であるサイトカインと違って、膜タンパク質であるサイトカインレセプターを同定するには、特別なコツが要り、expression cloningという当時用いられ始めた分子生物学的手法が必要でした。これを用いて、DNAX研究所の宮島篤先生のグループが、IL-3、GM-CSFのレセプター構成分子を次々に同定されました。その結果、IL-3、GM-CSF、それからIL-5の3つのサイトカインは、共通β鎖とそれぞれのサイトカインに特異的なα鎖のヘテロ二量体で形成されることを明らかにされました。共通の先祖遺伝子から多様なレセプター遺伝子が進化し、サイトカインのファミリー毎に共通なレセプターとそれぞれのサイトカインに特異的なレセプターとで完全なレセプターが形成されるという概念は、今ではサイトカインレセプターの常識となっていますが、それを明らかにする先駆的な仕事が、まさに留学していた時期に目の前で繰り広げられていました。また、これに加えて筆者の師である原田登之博士も当時IL-4のレセプター(IL-4レセプターα鎖:後にIL-13のレセプター構成成分でもあることが判明)を同定されており、サイトカインレセプターの発見競争においてもDNAX研究所は世界の先頭を走っていたと言っていいでしょう。DNAX研究所は当時、分子生物学部門、免疫学部門、ヒト免疫学部門の3つの部門から構成されており、遺伝子の同定と解析、そしてそれらのマウスあるいはヒトの免疫機構における役割の解析といった、遺伝子から個体までの解析をうまく組み合わして行っていました。あるテーマに沿って研究所全体がまとまって研究を進めていくという手法は、大学ではなかなか真似できないものだったと思います。

DNAX研究所がその背景として持っていた強みは二つあったと思います。一つは国際性豊かであったことです。これはアメリカにおいて一般的なことではありますが、同研究所では特に顕著であったと思います。筆者が留学した当時、研究所全体でのサイエンテイフィックスタッフの数は約200名前後でしたが、ある時出身国の数を数えてみると、30カ国に近い数字になったと記憶しています。あるレベルの教育水準を必要とする仕事の内容から考えると、この数字はかなり高いものではないかと考えます。アメリカ全体に共通することですが、このような豊かな国際性をもとにして、研究所を推進する活力が生まれていたかと思います。もう一つの強みは、同研究所のスポンサーであるSchering-Plough社が「金は出すけど、口は出さない」という姿勢を取っていたことです。つまり、同研究所に在籍する研究者たちは外部資金の獲得に苦労する必要はなく、自分たちの研究のことだけを考えていればよかったのです。しかも、研究内容が直ぐに創薬開発に結びつくようなものでなくても、学問的に高いレベルのものであればそれで構いませんでした。このような研究所が存在しえるのだろうかと思ってしまいますが、当時のDNAX研究所が求められていたミッションは、学問的に優れた成果を出してSchering-Plough社の広告塔になればよいということだったのです。「これ以上願うべくもない研究環境」というのは、このような特徴から育まれたものであったと思います。

しかしながら、冒頭でも述べたように、「Paradise for Researchers」であったDNAX研究所はもう存在しません。市場原理を行動規範とする民間企業をスポンサーとしている身では、致し方ないことだろうと思います。あのような特徴を持った研究所は振り返って見てもほとんど見当たらず、今後も出てくることは期待できないでしょう。今は、そんな奇跡のような研究所で研究生活を過ごせた幸運を感謝するとともに、そこで繰り広げられていた確かに学問を切り開いていた場面の数々を懐かしく思い出します。

(平成18年1月記)

在りし日のDNAX研究所(2003年当時)筆者と