tel 0952-34-2269
佐賀県佐賀市鍋島5丁目1番1号

研究室からのメッセージ

  1. 研究室の理念
  2. 教授から学生へのメッセージ「鬼の独り言」(平成15年度学園祭パンフレットより)

研究室の理念

ここでは大学人である私たちの役割は何なのか,また,その与えられた役割を果たすために普段どんな風に自分たちを鍛えようとしているか,そんな事柄について述べてみたいと思っています。

大学人としての役割,つまり大学の使命としては,もちろん,まず知識を蓄積し,かつ自分たちで新しい知識を創っていくことがあげられます。私たちが携わっている医学の世界だけでなく,他の学問の分野でもわかっていないことだらけであって,それを明らかにしていくことはまず大学人のなすべきことでしょう。ともすれば,学生の教育や病院での診療(医学部の場合です)を強調しすぎて,それだけで大学人としての役割を果たしているかのような発言が見受けられる場合もありますが,そんなはずはありません。たとえノーベル賞級の大発見でなくても構いません。ほんの少しの前進であっても,新しい発見を探す姿勢を持ち続けることが大事です。もしそれを忘れてしまったら,大学人であることを直ちに止めるべきでしょう。この事に対しては,多くの方は賛同して下さり,異論を唱える方はほとんどいないでしょう。でも,大学の使命としてぜひもう一つ別の事柄を強調したいと思っています。それは,社会の役に立つことを目指すということです。国立大学の法人化に向かって,社会貢献が新しい時代における大学の重要な役割だと言われるようになり,最近ではこのような考えも至極当たり前のように捉えられるようになりました。しかし,少し前までは,「役に立つような研究をしたい」と言うと,「研究者としては不純な動機だ」と言われることもあったのです。他の自然科学の分野ではそういう理屈も成り立つかも知れません。しかし,医学というのは基本的には実学であり,病気を理解し,それにどう対処するかを考える学問だと思っています。もちろん,研究した結果が,直接そのような役に立つとは限らない場合が多いこともわかっています。しかし,医学部に身を置いており,また個人的には臨床医から研究者となった身の上からは,自分たちの研究の行く先が病気の克服につながってほしいと願っており,そんな社会とのつながりを感じることは大学人としての大切なことだと思っています。

では,普段どんな風に私たちは研究の日々を送っているのか?それは,今述べたような果てしなき夢を見ながらも,小さな発見を探し,それを積み重ね,そしてそれにより少しでも新しい知識を創ろうとすることに悪戦苦闘する毎日だと言っていいでしょう。先ほど述べたことと矛盾して聞こえるかもしれませんが,実際のところ,日々のそれぞれの場面では,それが臨床に役立つかどうかについてはそんなに気にしていません。研究というのは,基本的には自分が知らないページを開いてそれを読むことに楽しみを感じることであり,その楽しさ故に研究を続けていると言っていいでしょう。そのページに何が書いてあるかは開けてみるまではわからない。また,読む気がなければ驚くようなことが書いてあっても気が付かない。でも何か新しいことが書いてあるにちがいないと気にしていれば,きっと「アッ」と思う瞬間がいつか訪れるでしょう。昔から多くの研究者は共通してそんな風に研究というものを捉えてきたのだと思います。偉人達は言っています。パスツール曰く,「偶然は準備された心にのみ微笑む」と。山村雄一元大阪大学総長曰く,「夢みて行い,考えて祈る」と。どちらも研究が持っている同じような特徴を表現した名言です。このような偉人にはとても及び付かない私たちとしては,次のように思っています。「棚からぼたもちという諺があるけれど,ぼたもちが落ちてくる真下にまで行く努力をしなければ,決してぼたもちは口に入らないのだ」と。そう,例えて言えば,研究の果実というものは棚から落ちてくるぼたもちみたいなものでしょう。そして日々私たちが研究を通して自分たちを鍛えているということの意味は,ぼたもちの落下地点をできるだけ正確に予測する空間感覚と,落ちてきたぼたもちを口に入れることができる運動神経を磨いていることだと言えるでしょう。そして,そうやって自分たちを鍛えていれば,ぼたもちが偶然自分たちの近くに落ちて来た時に,見事にそれを手中(あるいは胃中)に収めることができることでしょう。

(平成15年12月記)

学生へのメッセージ「鬼の独り言」

これは、出原が平成15年度の佐賀医科大学のむつごろう祭(学園祭)のパンフレット用に書いた原稿です。学生諸君に普段伝えたいたいメッセージをまとめていますので,ここに転載しておきます。

鬼の独り言

分子生命科学講座 出原 賢治

私が担当している科目は2年から3年に進級する際の‘壁’だと噂されているようです(と,複数の学生から聞きました)。でも,「試験では厳しいみたいだけど,授業ではやさしそう」と,言ってくれた女子学生もいることはいました(有り難う!)。「そうすると,この企画は‘仏’の○原(このパンフレットで文章を書いておられる○原教授のことです)と‘鬼’の出原を対比させ,その‘鬼’の秘密を探ろうということなの?」と,原稿依頼に来た酒井さんに尋ねたら,言葉には出さないけれど酒井さんの顔には「その通り!」って書いてありました。そうか,そうか,私のことを意地悪なやつだと思っているんだろう。それでもって,そんなやつの本音を聞いてみるかってことか。私の授業を受けていない方には何のことだかよくわからないと思うので説明すると,私の試験は記述形式になっていて,しかもけっこう考えないと答案が書けないような問い方をしているらしいのです。そう言えば,直球ではなく,手元で変化する球みたいと言っていた学生がいました。そんなだから,試験の後でもいったいどれくらい点数が取れたのかよく解らない,もっと言えば試験対策プリントが作りにくいと学生に言われています。しかも,最も重要なことは試験でよく落とすやつだと言われてることです。まあ,よくかどうかはわからないけど,私の科目で留年した学生がいるのは事実ではありますが。そんなわけで,教官としてフツーに仕事をしてきただけのつもりなのに,いったいどうして学生から不思議がられるのだろうって,原稿依頼されて改めて考えてみました。これまであまり考えてもみなかったことなのだけれど。その結果たどりついたのは,「教官が学生の状況について思っていることと学生自身が日常自分について思っていることが食い違っている」,あるいは,「教官が考えている学問ということと学生が捉えている勉強ということが食い違っている」っていうことでした。こんな機会もあまりないので,教官(少なくとも私)が思っているこれらの事柄について話してみます。

まず最初に言いたいことは君たち医学生は「エリート」であるということを自覚すべきだということです。こんなこと言うと,「時代錯誤的な特権意識を持てと言っているの?」って誤解する人がいるかもしれないけど,もちろんそんなことを言っているわけではありません。また,「自分は前期試験で別の志望校に落ちて(あるいは,センター試験で点数が伸びなくて)この大学に入ったのだからそんな柄ではない」と返答する人がいるかもしれないけど,そんな類いの話をしているわけでもありません。もし無事に大学を卒業し国家試験に合格したら,その瞬間から皆に「先生」と呼ばれ,大きな責任を任せられる身の上になってしまうという紛れもない現実を指しているだけのことです。「そうかもしれないけど,まだ先の話でしょう」という答えが返ってくるかもしれないが,確実に数年先にはそんな現実が待っている,あるいは入学した時点からすでにカウントダウンは始まっているってことは意識してもいいのではないのかな。少し話ははずれるけど,入学試験の面接で「どうして医者になろうと思ったか」という決まり文句の質問をすると,受験生は苦労しながらいかに自分の動機が強いものか述べようとします。もちろんそんな強い動機から医者を志している人も中にはいるでしょう。でも,多くの受験生は普通の高校生(あるいは浪人生)とそれほど変わらず,本音は社会的に立派そうに見えるからとか,もっと下世話に収入が多そうだとか漠然と思って希望しているのではないですか。それなのに,「強い動機を持っている受験生がよい医者を目指す資質を優れて持っていると一般的には考えられている」と誤解して,そんな答弁をしているのでしょう。でも,入学する段階での動機はその程度のあやふやなものでも構わないのですよ。それでもって,人間性に対する人並みの感受性と医者を目指していくという自覚さえ持っていれば,学生生活を過ごす間に徐々に医者の卵らしくなっていくことでしょう。では,どうやってその自覚を身につけていくんだろうか?そう問われれば,いろんな答えがあげられるけれど,一番の基本は,先ほど言ったように自分は「エリート」だという意識を持って厳しい授業や実習を克服していくことでしょう(と,少なくとも私は信じています)。医者にひとたびなれば,たとえ大学出たての新米であろうとも直ちに大きな権限と責任が与えられるのだから,学生時代に求められることも多いし,他の学部の大学生に比較してしんどい生活を強いられるのも当たり前のことでしょう。そんな風に思っているものだから,結果的に私のことが厳しい試験を行う教師に見えてるのでしょう。

試験問題を記述式にしていることだって,大学での(特に基礎医学での)勉強では系統立って論理的に物事を考えることが知識の丸暗記より重要だと考えているためなのですよ。だから,問いに対して反射的に答えが戻ってくることを期待しているのではなく,問いの意味を理解してそれに対して論理的な考え方で答えてくれることを期待しているのです。大学に入るまでは正解にいかに早くたどりつけるかという受験勉強を身につけてきた学生にとっては,この点がずいぶんと異なるため戸惑うみたいですね。試験に落ちた学生が私のところへ模範解答を書いて発表してくれと言って来たことがありました。そんなものを発表したら,またそれを一生懸命憶えようというのでしょうか。やれやれ,受験勉強の弊害はここまで来ているのかと思いましたね。単なる知識はすぐに忘れてしまい,しかし本を見直せばそれで済んでしまうことです。でも,論理的に物事を考えるための訓練はこの時期に行っていないと後から身につけようとしても難しくなるのです。そう考えてこんな試験問題を出しているんですよ。採点するのも結構大変なんですけどね。

でもですね,実は,本当に大変なのは医者になってからなのですよ。医学部での試験というのはそれぞれ範囲が決まっており,また一応の正解が用意されているわけです。けれど,医者になってしまうとどんな患者さんが自分の所へ訪れて来られるのか自分では予測できないので,来られた患者さん次第で勉強しなければならない内容が決まってくるわけです。また,正解が準備されていて誰かがそれを教えてくれるわけではなくて,自分でそれを見つけなければいけない,あるいはそもそも正解というもの自体が存在しないで,自分で一番正解に近いと思われる答えを考え出さないといけないかもしれないのです。そんな手探りの中で医学を勉強していくようになると,きっと将来「学生時代の勉強はまだ楽だったなあ」と想い出すことになると思いますよ。でも医学部生時代のその時は厳しいと感じていた授業や実習を克服したという自信は,医者になってからのもっとしんどくて長い道のりにおいて大きな支えになってくれるはずですよ(と,私は信じています)。

どうでしょうか?ここで言っていることに必ずしも賛同してくれなくてもいいのですが,教官の考えていることを理解するのに少しは役立ってくれたらうれしいですね。

(平成15年10月記)